神のいづきは こしみはて 矢さきにむかう 敵ずなし

 

      稲垣養心流の由来

 

 

 

 稲垣帯刀が流祖の養心流がある。稲垣帯刀は、三河国牛久保で出生した稲垣長茂であると伝えられている。稲垣帯刀は山本帯刀、板倉重実,倉弾正重定らと 三河八幡村城、八幡砦を築いている。牛久保六騎の一人でもある。

 

以後、稲垣一族から受け継がれ、京都に伝わっていった。

 

 広田義弥(廣田弥藤冶・1770年~1846年)は竹内流を難波兼興の流れをくむ吉田恒行に師事し努力の末奥義を極めた。ついで、京都に行き養心流を遠藤右膳に学び印可を受けている。

 

 広田義弥は、児島の琴浦、味野、稗田に門を開きその名は四方に広まり門人が集り相ついだ。児島には長く受け継がれ明治三十年のころまでは、伝承されていたが、柔道の発展と共に衰退してしまった。今では、児島で養心流を伝える者はいない。子孫の方の中に、伝書だけを持っておられる方は、何人かおり、その中には、揚心流と陽心流と書いている物もある。起倒流と一緒に伝えていた道場もある。道場名は正武舘(せいぶかん)である。

 

養心流の道場呼び名は(せいぶかん)で漢字を変えて区別していた。

 

 児島の陽心流、揚心流には柔術のみ伝承されていた。広田義弥の養心流を安井信造が新心流(養心流)として伝えた物には剣術、居合術、棒術などが存在する。

 

 広田義弥の流れをくむ道場は(せいぶかん)と字を変えて名乗る。

 

 養心流は陽心流、揚心流、新心流などと呼ばれていた。

 

稲垣帯刀、稲垣靭負、片山本蔵、見結道誉、竹内東水、生駒左門、遠藤右前、広田義弥(廣田弥藤冶)、森安弥吉、富岡初五郎、安井信造、永瀬恵吉、永瀬亀蔵、星島伸二、星島大伍郎に伝承されている。他にも免許皆伝が、吉松秀朗、髙橋秀夫がいる。

 

 

 

 稲垣長茂は、(天文八年・1539年~慶長十七年十月二十二日(16121114日) 七十四才で死去)三河国牛久保で出生。当初は今川方の牛久保城主牧野成定に仕えたが、永禄八年(1565年)に成定とともに徳川家康に臣従した。成定没後は康成に付属し重臣として活躍、遠江国諏訪原城攻略でも功を挙げた。小田原の役では、家康の特命で濠の水を掘って落とし船の底板で兵を渡す戦功を挙げた。家康関東移封後は、下野・上野にて三千石を賜り、慶長六年(1601年)には上野国伊勢崎一万石を領した。子孫は志摩鳥羽・近江山上藩にて続いた。

 

広田義弥(廣田弥藤冶・1770年~1846年)は備中大福村の人。幼いころから勇敢で、武略を好み、剣客として知られていた。難波兼興の流れをくむ吉田恒行に師事竹内の剣術を学び、努力の末奥義を極めた。ついで、京都に行き養心流の剣を遠藤右膳に学び印可を得、その名は四方に広まり、その門に集る者が相ついだ。弘化三丙午五月四日 死去 行年七十七才 碑(文政六癸未年 門人某等建之)

 

 安井信造は黒住教の布教を手伝っていた事もあり、いろんな場所で武術交流をしていた。富岡初五郎に師事し養心流を習い免許を受けている。安井信造は、複数の流儀を学び免許を受け新心流と名乗りを指導していた。永瀬恵吉は、安井信造に師事し新心流(養心流)の免許を受けている。

 

 永瀬恵吉は、一畳の周りに畳を立てて畳で蓋をしてその中で棒を振り廻した。又、恵吉の住んで居たところは、漁師が多く住みそこで、漁師に身体を縄で縛らせるが一瞬で縄から抜けてしまう。何度、誰が縛るても同じである。骨接ぎ、捻挫、腰痛、ぎっくり腰など何でも揉み解して直してしまう。道場には、四方から人々が遣って来ていた。毎日のように練習が行われていた。

 

「養心流の殺し取り、殺して捕って生かして返す。」と伝えている。